サンフレッチェ広島ユース10番、世代別代表——それでも私はプロになれなかった
〜久保建英・中村敬斗らと共に育った男が、引退後にたどり着いた答え〜
サンフレッチェ広島ユースで10番を背負い、
世代別日本代表まで進んだ私は、
プロサッカー選手にはなれなかった。
「病気だったからね」と多くの人は言う。
——だが、本当の理由は違う。
これは、
「思考のサボり」から逃げ続けた一人の選手が、
すべてを失った後で見つけた答えの記録です。
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目次
第1章 8番目の選手だった、小学生の私
第2章 高校時代、思考のスタートが遅すぎた
第3章 大学時代、私は孤独に閉じこもった
第4章 「皆と自分を比べても意味がない」——腹を括った日
第5章 怪物たちと私を分けた「決定的な違い」
第6章 人生の主導権を、他人に渡すな
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私がプロになれなかったのは、病気のせいではない。
大学4年の秋、J1〜JFLを含めると6チームから声をかけてもらっていた。
だが、順天堂大学病院で受けた最終メディカルチェックで、医師はこう告げた。
「日本のプロサッカークラブでプレーすることは、難しい」
いくつかのクラブからは、依然としてオファーをもらえそうだった。
海外のクラブからも、練習参加の打診があった。
だが、すべて断った。
自分で決めた。
サッカーで飯を食うという夢を、諦めた。
両親に伝えた時、二人とも泣いていた。
私も泣いていた。
この話をすると、大抵の人は「病気だから仕方ないよ」と言ってくれる。
優しい言葉だし、心からありがたいと思う。
だが、実際は違う。
私がプロになれなかった本質は、病気そのものではない。
本当の理由は——
「思考する」という行為を、長くサボってきて、
それに気づくのが、遅すぎたから。
順を追って書く。
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1. 8番目の選手だった、小学生の私
最初から才能があったわけではない。
小学4年生、母親の知り合いに誘われて、
広島高陽FCでサッカーを始めた。
そこでの私は、スタメンぎりぎりの「8番目」の選手だった。
トレセンにも引っかからない、どこにでもいる子供である。
ただ小6の時、どうしてもサンフレッチェのジュニアユースに行きたかった。
小6の4月から親に付き合ってもらい、
夜の公園でひたすら基礎技術を磨き、朝は走った。
夏を過ぎる頃、足が急激に速くなり、身体能力が一気に開花した。
12月のセレクション。300人近い1次選考から、私は3次選考の30人まで残った。
3次選考では、同い年で有名だった森島陸と紅白戦でマッチアップをし、アピールに成功。
合格通知が自宅に届き、
母と二人で、泣くほど喜んだのを覚えている。
中学では、その鍛え上げた身体能力だけで通用してしまった。
10番をもらい、2年で一つ上の全国大会に出場し、優勝。
エリートプログラムや日本代表にも選ばれ、
久保建英、中村敬斗、菅原由勢、鈴木冬一、瀬古歩夢、谷晃生——
のちに東京五輪世代や日本代表の主軸となる選手たちと、日常的に切磋琢磨した。
当時の私は、自分の才能も身体能力も、一切疑っていなかった。
今思えば、この時点で気づくべきだった。
身体能力というものは、いつか必ず底を尽きる「貯金」にすぎない。
それだけで生き残れる世界ではない、ということに。
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2. 高校時代、思考のスタートが遅すぎた
中学3年生で一足先にサンフレッチェ広島ユースに昇格し、U-17W杯優勝を目指していた世代だったため、久保建英や中村敬斗らと共に世界を意識する日々へ進んだ。
ここで、初めて本当の壁にぶつかる。
昇格した時の同級生は、私一人だった。
ただ、それは壁ではなかった。
仙波大志(水戸ホーリーホック)、満田誠(ヴィッセル神戸)をはじめ、ポジションが近かった一つ上の先輩たちが本当に可愛がってくれた。
人間関係には恵まれていた。
本当の壁は、別にあった。
——「周囲の身体が大きくなり、フィジカルが通用しなくなったこと」だ。
スピード・フィジカルだけで抜けていたドリブルや裏抜けが、まったく通じなくなった。
そこで初めて、慌てて頭を使い始めた。
高1・高2は、体格差を埋めるための身体のキレと、
相手を剥がすテクニックを磨くことに集中した。
高3では、そこに中学時代の武器だった「裏抜け」と「スピード」を融合させた。
自分の武器を出すだけでなく、
チーム状況に合わせて、ポジションや役割、プレースタイルを自在に変える力も身につけた。
「ようやく、頭を使ってサッカーができるようになった」
そう思い込んでいた。自信も、確かにあった。
高3で背番号10をもらい、サンフレッチェ広島のトップチームの試合にも出場した。
そして高校年代の日本一を決めるプレミアリーグWESTで優勝。
ファイナルで鹿島アントラーズユースを破り、日本一に立った。
私は、エースナンバー10を背負って、頂点に立っていた。
だが、トップ昇格の評価は——「保留」だった。
今ならわかる。プロのスカウトは、ちゃんと見ていた。
小中を身体能力だけで乗り切ってきた選手が、
高校で慌てて頭を使い始め、器用にプレーを変えられるようになったとしても、
プロの舞台では通用しない——と。
本来ならそこで、
「では、どうすれば昇格できるのか」を徹底的に大人と詰め、
死に物狂いでプロ契約を掴みに行くべきだった。
だが、私はその決断から逃げた。
「順天堂大学で力をつけてから、プロに行けばいい」と、
目の前に用意された楽なレールに乗ってしまった。
思考を始めるのが、遅すぎた。
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3. 大学時代、私は孤独に閉じこもった
順天堂大学に進学した。
スタートは順調だった。
入学直後の4月に関東大学リーグデビューも果たした。
だが、1年の夏前、尿管結石が再発した。
高校2年の修学旅行の帰りに、羽田空港で倒れて以来——
腎臓の不安は、ずっと抱え続けていた。
復帰と離脱の繰り返し。
監督は私の才能を信じて、特別ルールを作ってくれた。
火水木は休んで治療、金は練習、土日は試合に出る——という、私だけの特別なスケジュールだった。
だが、ここが人生最大のしくじりだった。
練習をしていない1年生が、試合にだけ出る。
結果も出ない。先輩からの視線は厳しい。
私は「病気でプレーできない自分」に、完全に閉じこもった。
追い打ちをかけるように、新型コロナウイルスが世界を覆った。
1年時は寮生活だったが、2年からは1人暮らし。
孤独の中で、不安だけが膨らんでいった。
中学から一緒にやってきた山﨑大地(サンフレッチェ広島)には、状況を話していた。
練習場に行けば、誰もが心配そうに声をかけてくれた。
「一緒に戦ってきた奴らはプロ・代表で活躍している。
大学の同期も、1年目から試合に出ている。
自分は、何もできていない」
温度差が、ただただ辛かった。
一時期、サッカーの情報を、完全にシャットアウトした。
そして私は、最も大切なものを放棄した。
——「ピッチ外での価値」だ。
高校時代、あれほど「チームに合わせて適応できる」と自負していたのに、
大学では「プレーできない状況で、チームにどう貢献するか」
という思考を、完全に捨てていた。
練習に出られないなら、相手チームの分析を仲間に渡すこともできた。
外から戦術を提案することもできた。
その訓練を重ねていれば、サッカーIQは間違いなく上がっていた。
何より、「プレーできなくてもチームに必要な存在」になれていたはずだ。
だが私は、「自分の価値はボールを蹴ることだ」と決めつけ、
組織の中でどう貢献するかを考える営みから、逃げた。
平日に仲間のために頭を使わない人間が、
週末だけピッチに立って信頼される、ということは起こらない。
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4. 「皆と自分を比べても意味がない」——腹を括った日
どん底の中で、私はあるとき腹を括った。
「皆と自分を比べても、意味がない」
身長は163センチ。決して体格に恵まれた選手ではない。
だからこそ、「それでもプロで活躍できる」という
夢や希望を与えられる存在になりたい。
ずっと、そう思ってやってきたはずだった。
もう一度やる。やってやる。
そう決めた。
私は、一人ではなかった。
病院には、サッカー好きな担当医がいた。
落ち込んでいる日も、その先生はずっと励まし続けてくれた。
「大丈夫だから」——何度、その一言に救われたかわからない。
広島ユース時代の恩師、沢田謙太郎さんから、
ある日突然、連絡が来た。
「調子はどう?」
「頑張ってます」と返した私に、こう言ってくれた。
「こっちに戻ってくるのを、楽しみにしているからな」
ユースの先輩、同期、久保建英、中村敬斗、菅原由勢ら元チームメイトも、
詳しい病状を知らないはずなのに、
「元気かぁ」と、ぽつりぽつりと声をかけ続けてくれた。
皆、察していた。
察して、そっと支えてくれていた。
私は本当に、多くの人に見守られて、生かされていた。
3年の秋まで、約2年間リハビリに専念した。
4年で復帰、前期リーグは全試合に出場してアピールを重ねた。6チームから声をかけてもらった。
古巣のサンフレッチェ広島からも、練習参加の要請が届いた。
必死に食らいつき、手応えも掴んだ。
——そして、10月のメディカルチェック。
「日本のプロサッカークラブでプレーすることは、難しい」
ドクターの言葉を、私は静かに受け取った。
海外のオファーも検討した。
だが、現実的に「そこから上に行けるか」を考えた時、
Jでの実績がない自分にはイメージができなかった。
両親に伝えた日、二人とも泣いていた。
私も、泣いていた。
「もう、きっぱり決めたから。未練はない」
そう伝えて、私はプロサッカー選手という夢を、手放した。
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5. 怪物たちと私を分けた「決定的な違い」
引退後、一緒に育った久保建英、中村敬斗、谷晃生、菅原由勢、瀬古歩夢——
彼らの活躍を見ながら、ずっと考え続けていた。
彼らと私を分けた「決定的な違い」とは、何だったのか。
才能ではない。身体能力でもない。
私は高校でフィジカルが通用しなくなってから、
ようやく慌てて頭を使い始めた人間だ。
だが、彼らは違った。
小学生、中学生の頃から、彼らはずっと——
「自分の現在地を俯瞰し、最適解を言語化し、自分で決断する」
この思考の力を、圧倒的に備えていた。
納得するまで、監督のところへ戦術を聞きに行く。
練習中でも、味方に対して「ここはこう動け」と平然と要求する。
「監督に言われたからやる」ではない。
「自分はどうプレーしたいか」「どうすればチームが勝てるか」を常に考え、
言葉にし、大人の指示すら自分の中で咀嚼した上で、決断する。
彼らは、ピッチ上の「主導権」を、常に自分から取りに行っていた。
サッカーとは、足でボールを蹴る前に、
「脳で状況を処理し、決断する」競技である。
ピッチの内外で壁にぶつかっても、
思考によって盤面をひっくり返し、主導権を握り続ける。
それが、プロとして生き残る人間の正体だった。
「病気だからプロになれなかった」と言い訳している限り、
私は一生、彼らに追いつけない。
私に足りなかったのは、健康な身体ではなかった。
小さい頃から鍛え上げられた「思考力」だった。
彼らに進路を伝えた時、全員応援してくれた。
「もう、それはしょうがない」と声をかけてくれた。
本当に、いい奴らだ。
今はもう、悔しさはない。
ただ、会うたびに刺激をもらう。
「負けたくない」という思いは、消えない。
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6. 人生の主導権を、他人に渡すな
これを読んでくれている人に、伝えたいことがある。
「人生の主導権を渡すな」とは、どういうことか。
それは、「誰かに言われたからやる」とか、
「病気だから、怪我だから、環境が悪いから仕方ない」と、
思考を止めて流れに身を任せない、ということだ。
私は高校で「保留」と告げられた時、
大人に反論することもできず、用意された大学へのレールに乗った。
大学で病気になった時も、自分で役割を見つけることを諦め、
状況のせいにした。
思考を止めて「誰かのせい」「環境のせい」にした瞬間、
自分の人生であるにもかかわらず、
その操縦桿を、他人に手渡してしまうことになる。
感覚や身体能力だけで戦っている選手、
なんとなく用意されたレールに乗っている選手——
いつか必ず、私と同じように足元をすくわれる。
絶望的な状況に追い込まれた時、最後に自分を救うのは、
他人からの同情ではない。
自分の「脳」だけだ。
だから、思考を止めるな。
もっと早くから、頭に汗をかけ。
自分の人生の主導権を、絶対に、他人に渡すな。
私は今、株式会社WiRMの代表として、
サッカーに人生を賭ける子供たちを指導している。
次の世代には、私と同じ後悔をしてほしくない。
身体能力や感覚だけに頼らず、
小さい頃から「思考する選手」であってほしい。
病気で引退した私が、彼らと違う形で、
この世界にもう一度、価値を残せるとしたら——
それは、「サッカーを通じて、プロでも、プロじゃなくても、
考える人間を育てる」ことだと信じている。
このコラムでは、これから——
プロ選手たちの一瞬の判断を、「プロになれなかった側」の視点から解剖する。
AIで、サッカーを解剖する。東大エンジニアと共同開発したツールを武器に、感覚で語られてきたものを数字と構造で見せる。
「思考力」は、ピッチでも、教室でも、オフィスでも、武器になる。
感覚や環境に流されず、自分の人生の主導権を握り続ける方法。
これらを、書いていく。
サッカーは、あくまで題材だ。
ピッチで「主導権を取りに行く」選手と、
ビジネスの世界で「主導権を取りに行く」人間。
私は引退後、その2つが同じ構造を持っていると知った。
どちらの世界でも、結果を分けるのは同じものだ。
——思考力。
状況を俯瞰し、最適解を言語化し、自分で決断する力。
だから、このコラムで書いていくことは、結局これに尽きる。
思考を止めるな。
自分の人生の主導権を、誰にも渡すな。
思考することから逃げない人と、共に歩みたい。
——桂 陸人 / 株式会社WiRM 代表
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サービスのご案内
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
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著者プロフィール
桂 陸人(かつら りくと)
株式会社WiRM 代表取締役
サンフレッチェ広島ユース 10番、U-14〜U-18 世代別日本代表。
順天堂大学卒業後、株式会社リクルートを経て、
2024年12月、株式会社WiRMを創業。
育成年代の「思考力」を育てる事業を運営している。